学校と納豆の等価性 ~不登校が無くなるとき~

数回に分けてちょっと変なタイトルでブログを綴ってきました。

今まで書いてきた内容は、

・「納豆嫌い!」は問題視されないのに、「学校嫌い!」は大問題になってしまうのは何故か?

・日本には「学校だけが唯一の学びの場である」という信仰にも似た考えがあり、それが不登校という「問題」を作っている。

・人間には様々な情報処理の仕方があり、その方法によっては学校の講義型の学習が合わない子もいる。

・HSC(Highly Sensitive Child)と呼ばれる感受性豊かな子どもがいて、その才能ゆえに学校にいるだけで苦しくなる場合がある。

・世界の教育に目を向けると、実に多彩な教育プログラムが用意されていて、日本のように単一のキャリアパスしか用意されていない国のほうが少ない。

ということです。

 

子どもたちと接していると、一人一人が実に多様であることがわかります。

その多様である子どもたちに一様な授業を提供することで、理解に達することができず、

自尊感情に傷つきを抱えてしまう子も少なくありません。

私自身、今では高校生に数学を教えておりますが、高校生の時は本当に数学が苦手で、

高校二年生の夏休み明けのテストで0点を取ったことは今でもはっきり覚えています。

そして学校自体にうまく馴染めなかったことも相まって、自己嫌悪の感情を強く抱いていた高校時代でした。

 

学校とは本来どういう目的で作られた場でしょうか?

子どもの学力や社会性、自尊感情を育て、自立を促す場であるはずです。

今の学校教育には、七、五、三という言葉があります。

小学生の三割、中学生の五割、高校生の七割が授業の内容を理解できていない、という現状を表す言葉です。

この状態で学力、自尊感情が育まれていると言えるでしょうか?

またテストをして他の子と競わせることに重きを置く今の入試制度で、

他の誰かと協力して何かをなしてゆく社会性が果たして身につくのでしょうか?

日本で学制が敷かれた明治五年の地政学的状況を考えれば、

今のような学校の形を取らざるを得なかったのかもしれませんが、

今そのシステムは、日本の現状との間で大きな齟齬を来していると感じます。

 

学校というシステムが様々な問題を抱えているなかで、

子どもたちの可能性を伸ばすために一生懸命努力しておられる学校の先生方を私は知っています。

そして様々な制約のある中で試行錯誤されている先生方を尊敬もしています。

今すぐには無理でも、やがてこの国の教育はゆっくりと変化していくでしょう。

ただ、関わる人間が多い組織ほど、急に変わることができないものです。

もしお子さんが現状に強い苦しさを抱えているなら、そこから避難することだと思います。

学校で経験できることの多くは、実は学校以外でも経験できます。

学習したいと思うなら、図書館で本を読んだっていいし、塾や家庭教師も選択肢の一つと思います。

社会性を身に着けたいのならば、アルバイトやボランティア活動に参加してみてもよいと思います。

それから日本には、高卒認定試験という制度があり、それに受かれば専門学校、大学を受験することができます。

高卒認定試験について

学校から避難したとて、何一つ人生の選択肢はせばまりません。

大丈夫です。

 

人生いろいろ、子どももいろいろ。

そうであるならば、学びの場もいろいろであるべきなのに、たった一つの受け皿しか用意されていない。

それが不登校という「問題」を作り出している。

そういう側面もあると私は考えます。

日本という国は、その地理的、歴史的背景から、多様さに対して不寛容な国です。

ただこれからは交通、通信の手段が発展し人や情報の移動がどんどん容易になっていく時代。

社会が寛容さを身につけざるを得ない状況になっていくでしょう。

この社会が成熟し、自分と異なる他者に対する寛容さを持ちえたとき、

この国から不登校という「問題」がなくなるのではないでしょうか。

不登校という「問題」を通じて私たち大人に問題提起してくれている子どもたち。

それに私たち大人はどう応えていけばいいのでしょうか?

変わるべきは子どもではなく、まず私たち大人です。

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