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過去という名の物語 ~現在が過去を規定する~

ここ数回、アドラー心理学の知見をシェアしております。

原因論と目的論について綴ってきましたが、お子さんの不登校について悩まれている親御さんの中には、

「私の育て方が悪かったから、、、。」と原因論の立場からご自身を責めていらっしゃる方が多いと感じています。

前回のブログでは、原因論の根拠となる「過去」は、必ずしも客観的事実ではなく、

目の前の人に「私はこういう人間です」と認識してもらうという目的を果たすために、

選択的に回想される主観的事実、物語のようなものであると綴りました。

他者に対して過去を物語るとき同様、

私たちが頭の中で自分の過去を回想するときも、ある目的を持って思い返しているのではないか?

今回はそんな話を綴って参ります。

 

=現在が過去を規定する=

辛い気持ちを抱えているとき、辛い過去を思い出しやすい。

幸福感を抱えているとき、幸せな過去を思い出しやすい。

そんな経験はありませんか?

人は現状に対する認識を正当化するように過去を回想する。

学術的根拠はありませんが、私は自分の経験からそのように感じます。

自分の現状に対して、しんどい、辛い、そういう感情を抱いているならば、

そのしんどさや辛さを合理的に説明するのに都合の良いエピソードを選択的に回想する。

例えば、今自分がこんなに辛いのは、あのとき自分があんな振る舞いをしたからだ、とか。

逆に、現状に対して幸福感や充実感を抱いているならば、

その幸福感や充実感を合理的に説明するのに都合の良いエピソードを回想する。

例えば、今こんなに充実感を抱けるのは、あの時にあの人があんな風に自分に接してくれたからだ、とか。

つまり、客観的事実としての過去が存在するのではなく、その時その時の自分の現状認識が過去を規定している。

私は自分自身の経験からそのように考えます。

 

=負のループに陥らないために=

そうであるならば、原因論に縛られて過去を振り返り自分を責めてみても、

現在の自分に対する認識がどんどん悪くなり、

さらにその悪化した現状認識を正当化するように、自分の過去にさらに悪い意味付けをしてしまう。

そんな負のループに陥ってしまうのではないでしょうか?

今現在の自分自身に対する認識が、過去の意味付けを規定するならば、

ご自身を責めるよりもまず、ご自身の現状に対する認識に偏りがないかを客観視し、

その偏った認識を少しずつバランスの取れたものに変化させていけば良いのではないでしょうか?

認知に対する認知をメタ認知といいます。

つまり、自分はどういう認知の仕方の癖があるのかを認知する、ということです。

認知の仕方の癖を客観的視点から認知し、その偏りに補正をかけていくことで、

自分自身に対する認識がどんどん悪くなっていくという負のループに陥らずに済むのです。

 

当たり前の話ですが、人は365日、24時間自分という人間と一緒にいます。

常に一緒にいるこの「自分」という枠を離れて自分を客観視するのは、決して簡単なことではありません。

自分の認知の仕方に対する認知を得るには、自分自身を客観的に振り返るには、どうすれば良いか?

次回は、そんな内容を綴ろうと思います。

お問合せはこちらからどうぞ。

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「過去」という名の物語

前回はアドラー心理学の原因論と目的論について綴りました。

原因論に囚われて「私の育て方が悪かったからこうなった」と、親御さんがご自身を責めることで気持ちが沈み込み、

それに同期するようにお子さんの状態も沈みこんでいく。

そういう原因論の負のループに陥らないためにも、目的論という別の視点化から状況を眺めてみることで、違う対応方法が見えてくる。

前回はそのようなお話を綴りました。

そもそも原因論で語られる「過去」というものは、客観的事実ではなくその人の主観が作り出した物語なのではないか?

今日はそのようなお話を綴ります。

 

=過去は前未来形で語られる=

フランスのジャック・ラカンという頭のとても良い哲学者が以下のように述べています。

「私たちの過去の記憶は、前未来形で語られる」

前未来形とはフランス語の文法用語で、英語で言うところの未来完了形のことです。

未来の一時点を想起して、その時にはすでにこのような状態である、という内容を述べるために用いられる表現です。

例を挙げましょう。

I will have finished my homework when my friends come.

訳:友人たちが来る頃には、私は宿題を終えていることでしょう。

友人がやってくるという未来の一時点を想像し、その時までに私は宿題を終えた状態になっているだろう、と表現しているわけです。

これが前未来形、未来完了形です。

 

=「過去」という名の物語=

話は戻ってジャック・ラカンの言葉について。

人は過去の自分について物語るとき、すでに話し終えた未来の一時点を想像して、

自分は「これこれこういう人間です」と相手に理解してもらうために、選択的に自分の過去を回想する。

ジャック・ラカンはそう述べています。

例えば、目の前の人に清廉潔白な人だと思ってもらう、という目的を遂げるために、

自分が既に話し終えた未来の一時点を想像して、自分の過去から選択的に清廉潔白さを印象づけるエピソードだけを語る。

例えば、目の前の人に邪悪な人間だと思ってもらう、という目的を遂げるために、(その人から嫌われたい何かしらの理由があるのでしょうね。)

自分が既に話し終えた未来の一時点を想像して、自分の過去から選択的に邪悪さを印象づけるエピソードだけを語る。

清廉潔白でないエピソード、邪悪でないエピソードなど山ほどあるにも関わらず、

話し終えたときに、目の前の人にこういう人だと思ってもらうという目的を遂げるために、

無意識的にエピソードを選りすぐり、自分の過去から一筋のストーリーを紡ぎ出して語る。

私たちが過去を物語るとき、そのような操作が自分でも気づかぬ間に為されているのです。

そういう視点に立って考えてみると、人の過去とは客観的事実ではなく、

ある目的を遂げるために編まれた主観的事実でしかない、とも言えるのではないでしょうか。

ちょっと長くなりましたので、続きは次回に。

お問合せはこちらからどうぞ。

参考図書:疲れすぎて眠れぬ夜のために 内田 樹 著

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原因論と目的論 ~不登校の目的~

先日、友人からアドラー心理学の読書会に招待してもらいました。

アドラー心理学について書いた書籍「嫌われる勇気」はだいぶ前に出版されたものですが、

今でも本屋さんの目立つ位置に置かれているロングセラーです。

一度では到底理解できず、私は三回読み返しましたが、読書会を機にもう一度読み返してみました。

「嫌われる勇気」をはじめ、アドラー心理学の書籍には、子どもを自立に導くためのたくさんのヒントがあると感じます。

様々気づくことがあったので、今回はアドラー心理学を通して子どもたちを自立に導く方法について綴ってみようと思います。

=原因論と目的論=

アドラー心理学の祖であるアルフレッド・アドラーは、フロイト、ユングとともに有名な心理学者で、

かつてはともに学び合う仲でしたが、それぞれの学説の違いから袂を分かつに至ります。

その一つが原因論と目的論です。

フロイトの心理学では、過去の出来事(トラウマ)が原因となって今の問題が起きている、という原因論の立場をとります。

例えば、ある人が人との関わりを持とうとしないのは、過去に人間関係で痛い目にあった心の傷があるから、というのが原因論の考え方です。

一方アドラーが唱えるのが目的論です。

今の問題行動はある目的を果すためになされている、という考え方を取ります。

例えば、ある人が人との関わりを持とうとしないのは、人との関わり合いを避けることで自分は傷つかずにいられる、という目的を果たすため。

これが目的論の考え方です。

=トラウマは存在しない?=

原因論ではなく目的論を採用するアドラー心理学では、過去の出来事が原因で今の問題が起きているという、トラウマの考え方を否定します。

ただ現在では脳科学の研究が進み、虐待や育児放棄を受けて育った人は、

偏桃体の大きさが肥大し、ストレスに対する感受性が高くなる、

などの研究成果も明らかになっているので、私はトラウマを完全には否定できないと考えます。

しかし、不登校の子どもとの関わりを考えるとき、問題を原因論ではなく、目的論で捉えることで見通しが良くなる、そんな場合も多いように感じます。

=問題行動の目的=

不登校、夜遊び、摂食障害、自傷行為、依存症。

子どもたちの問題行動の多くは、多くの親御さんが「私が悪かったんです、、、。」と仰るように、原因論の立場から語られることが多いと感じます。

そして親御さんはご自身を責めて気持ちが沈み込む。それに同調するようにお子さんの状態も沈んでいく。

そんな場合が多いように感じます。

同じ問題行動を目的論の視点から眺めてみるとどうなるでしょうか?

子どもたちは問題行動を通じてどんな目的を果たそうとしてるのでしょうか?

それは親御さんの関心を得るということです。

子どもはじめ他者に優越することで親の関心を引こうとするが、それが失敗に終わると今度は他者より劣等することで関心を引こうとする。

アドラーはそのように述べています。

問題行動を起こすことで子どもたちは親御さんの関心を得ようとしている。

目的論の立場から眺めてみると、そういう解釈もできる訳です。

=目的論的解決策=

そうであるならば、子どもたちが示す問題行動をやめさせるために、何をすればよいのかが自ずと見えてきます。

それは、子どもたちが求めているものを与えてあげること。

子どもたちに関心を示してあげることです。

原因論的観点からご自身を責めて親御さんが辛い顔をしていても、問題行動だけを力ずくで押さえつけても、

それだけでは子どもたちの問題行動は解決しません。

なぜこの子はこのようなふるまいをするのか、目的論的観点に立ってその子が抱えている問題を分かろうとし続ける姿勢。

それが子どもたちの問題行動を解決するために、とても重要であると私は考えます。

関心を示すというと、子ども自身の問題にあれこれと口をはさんだり、先回りして手助けしたり、

そういうふるまいを想像される親御さんもいらっしゃるかのしれませんが、

アドラーは「課題の分離」という言葉で、そういうふるまいは好ましくないものとして明確に否定しています。

次回はこの「課題の分離」という考え方について。

続きます。

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母性とは何か ~受容と包摂~

前回のブログで、気持ち一杯になって動けなくなった子どもにまず必要なのは、

母性的優しさで受け容れる事、包み込んであげること、とお伝えしました。

私の考える母性とは、受容と包摂なのですが、この言葉だけでは抽象的過ぎて何のことだかわかりづらいと思います。

あくまでも一例に過ぎませんが、私の考える母性の表現の具体例を挙げてみたいと思います。

1、スキンシップ

お子さんが中学生や高校生になっていると、もう抱っこするとか一緒にお風呂に入るとかは難しいと思いますが、

例えば肩を揉んであげる、足をマッサージしてあげるとか、お子さんと肌を触れ合わせる機会を増やしてみる事をお勧めします。

スキンシップをするとオキシトシンというホルモンが分泌され、お互いにリラックスして幸せな気持ちになることが知られています。

2、好きなご飯を作ってあげる

お子さんの好きなご飯を作ってあげてください。

自分の好きなご飯を手間をかけて作ってもらうことは、

「この人は自分に関心を持ってくれているのだな」

という非言語的メッセージとして子どもに伝わります。

料理することに関して私が読んでとても感銘を受けた本があります。

この本を読んで私は料理は愛情表現なのだなと強く感じました。

ここ:食卓から始まる生教育 内田 美智子 著

誰かに大切にしてもらえて初めて、人は自分を大切に思えるようになるのだと感じました。

もし良かったら読んでみてください。

3、話を聴く

これは以前からブログで書いていることです。

話を聴くというのは、アドバイスという形で自分の意見を相手に押し付けることではありません。

相手を、分かりきる事ができない自分とは異なる他者として尊重し、

分かり切れないと分かりつつ、それでも分かろうとすることです。

具体的にどうすることか。

以前書いたブログを御覧ください。

「聴く」とは何か?

4、勇気づけ

これはアドラー心理学の知見です。

褒めるも叱るも評価の言葉であり、言葉をかけられた人に対して絶対的な安心感を与えるものではありません。

勇気づけとは、そのような評価の言葉ではなく、その人の存在に感謝する言葉です。

例えば、お子さんが朝起きてきたら、

「今日も○○の元気な顔が見られてうれしい」とか、

家の手伝いをしてくれたら、

「助かったよ、ありがとうね」とか、

ご飯をきれいに全部食べてくれたら

「おいしそうに食べてくれてうれしかったよ」とか、

その人の行為を評価するのではなく、その人の存在や行為に対して感謝や喜びを伝えることです。

以上私が考える母性の具体例を綴ってみました。

このような接し方を通じて子どもたちの心に安心感が生まれやがて立ち上がっていく、

そういう事例が多いです。

一朝一夕で変わることはありませんが、続けることでゆっくりゆっくりお子さんが変化していきます。

どうぞご無理のない範囲で試してみてください。

お問合せはこちらからどうぞ。

参考図書:ここ:食卓から始まる生教育 内田 美智子 著

アドラー心理学入門 岸見 一郎 著

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優しさって何だろう? ~寛容さと厳しさ~

昨日のブログでは、優しさについて綴りました。

優しさには、受容する母性的優しさと、区別する父性的優しさがあり、

その両方がバランスして初めて優しさとして機能する。

寛容さと厳しさ、二つあって初めて優しさなのだ。

そんな内容を綴りました。

今の日本には、子どもを叱るという父性的優しさが欠如しています。

感情的になって子どもに怒りをぶつけることはあっても、

理路整然とダメなものはダメ、こうしなさいと諭す父性的優しさがありません。

また子どものやりたいようにやらせています、と言いながら、

それが母性的優しさを装った無関心であることも多いように私は感じます。

感情的に怒ることも、無関心も、意識の矢印が自分自身に向かっていて、子どもの方を向いていません。

子どもたちはその大人の無関心を敏感に感じ取り、わざと関心を引くために問題行動を起こす場合も多いのです。

母性的優しさ、父性的優しさ、優しさにはこの二種類がありますが、

先日も綴りましたが、心の中に自分は自分であって大丈夫なのだという安心感があるからこそ、

人間は外の世界に関心を持ち、一歩を踏み出していけるようになるのです。

その安心感が足りない時に、まず必要なのは、受け容れること、母性的優しさで包摂してあげることです。

それでは、母性的優しさで受け容れる、包み込むとは、具体的にどんなふるまいをすることでしょうか?

続きます。

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受け容れるとは何か ~優しさと無関心~

前回のブログで気持ち一杯で動けなくなった子どもを受け容れるとは、好き放題させることではない、と綴りました。

受け容れるとは何かを考える上で、優しさとは何かを考える必要があります。

優しさとは何でしょうか?

 

私は優しさには二種類あると考えます。

母性的優しさと父性的優しさです。

母性的優しさは、受け容れる、包み込む、というイメージ。

父性的優しさは、区別する、教化する、というイメージです。

抽象的で分かりづらいので、具体例を挙げてみたいと思います。

例えばお子さんが学校で先生に叱られて帰ってきたとします。

その時に、「先生に叱られて辛かったね。もう大丈夫だよ。」と子どもの気持ちを汲み取り味方をしてあげるのが、母性的優しさ。

一方で、「先生の言う通りだ。なんでそんなことをするんだ!」と子どもにルールを教えるために叱るのが父性的優しさです。

具体的にどのような理由で叱られたのか、その出来事がどういう文脈で起きたのかなど、詳しくわからなければ、どういう対応が適切かは判断できません。

しかし、優しさにはこの二種類があり、片方だけでは優しさとして機能せず、両方が必要なのだということです。

 

昨日のブログに書いた、ゲームやネットを好き放題使わせる、欲しいものは何でも買い与える、暴言、暴力に対して抗わない、などの対応は、

母性的優しさの過剰と捉えられるのかもしれませんが、それは違います。

これらの対応は優しさではありません。

無関心です。

なぜこれらの行為を許容してしまうのかと言えば、そうさせておく方が楽だからです。

その無関心を感じ取りこちらに関心を向けてもらおうと、子どもたちの行動はエスカレートしていくのです。

それでは、これらのケースで母性的優しさ、父性的優しさとはどのように発揮されるのでしょうか?

 

例えばゲーム依存について考えてみます。

母性的優しさであれば、なぜその子がゲームに没頭してしまうのか分かろうとすることです。

その子がどのような気持ちでその行為をしているのか、関心を持って耳を傾けることです。

父性的優しさであれば、ゲームばかりしているのは当然身体に悪いわけですから、

力ずくで取り上げるなどの、ダメなものはダメとルールを子どもにしっかりと教える事です。

どちらの方法も表現方法は違えど、子どもに関心があることでは共通しています。

この両方がバランスしていて、初めて優しさとして機能するのです。

だからお子さんが、自分を害するような問題行動をしているときは、父性的優しさでダメなものはダメと伝え、

そのうえで母性的優しさで、その子がどうしてそのような訴えをしてくるのか分かろうとする、という二段構えの対応が必要になってきます。

ダメなものはダメと伝える過程で、お子さんと感情的なぶつかり合いが起きるかもしれませんが、それも必要なことです。

自分に関心を持ってくれているのだというメッセージとして、子どもたちに届くはずだからです。

続きます。

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受け容れるとは何か?

気持ち一杯になって動けなくなった子どもにまず必要なこと。

それは、学校に行かないと大変なことになる、と脅すことでも、

無理やり手を取って学校へ連れていくことでもありません。

気持ち一杯になって動けなくなった時、まず必要なのは、安心できる環境で休むことです。

周囲の大人がお子さんの辛さを受け容れてあげることです。

それでは、受け容れるとは具体的にどうすることを言うのでしょうか?

受け容れるとは、好き放題にさせる、なんでも許す、言いなりになる、ということではありません。

例えば、ゲームやネットを好き放題使わせる、欲しいものは何でも買い与える、暴力、暴言に対して抗わない、など。

そういう対応を受け容れるとは言いません。

ゲーム・ネット依存、買い物依存、家庭内暴力などの問題行動を通じて、子どもたちが発しているメッセージとは何でしょうか?

それらの問題行動を通じて子どもたちが発しているのもの。

それは「こっちを見て!」というメッセージです。

誰かに優越することで、周りの大人の関心を得られなかった子どもは、

今度は誰かより劣等することで周りの関心を得ようとします。

必死でいい子を演じてきてそれでも関心が得られなかったから、

今度は問題行動と言われるものを通じて、周りの関心を得ようとする。

そして、なぜ自分はこのようなことをしてしまうのか、その動機には本人さえも気づけないことが多いです。

人は認めてしまうと辛くなるような感情を、自分自身にさえ隠蔽してしまうからです。

このように問題行動とは、心の深い部分にある感情が特定の方法をとって表出しているに過ぎないので、

いくら好き放題やらせても、本来得たいものが得られないために、量的に増大しエスカレートしていくだけなのです。

受け容れるとは、好き放題させる、何でも許す、言いなりになる、そんなことではありません。

受け容れるとは、褒められるための努力も、叱られるための努力も、何も必要ないのだよと、

言語的、非言語的方法を通じて子どもたちに日々伝え続けることです。

続きます。

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聴くということ 〜映画「あん」に思う〜

先日亡くなられた樹木希林さんの映画「あん」を観ました。

映画「あん」

優しい映画で本当に感動しました。

映画を観ながら、茨木のり子さんの詩が頭に浮かびました。

======================

聴く力 茨木のり子

ひとのこころの湖水

その深浅に

立ちどまり耳澄ます

ということがない

風の音に驚いたり

鳥の声に惚けたり

ひとり耳そばだてる

そんなしぐさからも遠ざかるばかり

小鳥の会話がわかったせいで

古い樹木の難儀を救い

きれいな娘の病気まで直した民話

「聞耳頭巾」を持っていた うからやから

その末裔は我がことのみに無我夢中

舌ばかりほの赤くくるくると空転し

どう言いくるめようか

どう圧倒しようか

だが

どうして言葉たり得よう

他のものを じっと

受けとめる力がなければ

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普段の自分のことですね。

声なきものの声に静かに耳を傾ける。

「聴く」というのはそういうことなんだなぁ。

聴くことの難しさと大切さについて気づかされました。

全国各地の映画館でも再上映されるようですね。

新潟市ではこちらで上映するようです。

樹木希林さん特集上映

機会があったらぜひ御覧になってください。

お問合せはこちらからどうぞ。

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自立は依存を通じて果される

前回、前々回のブログでは、

・自立とは、何でも自分で出来るようになることではない。それは自立ではなく孤立に繋がる。

・自立とは、適切な時期に十分に受け容れられ甘えられるという依存体験の後に初めて果されるものである。

・自立とは相互依存的な人間関係のネットワークに身を置いて生きていけるようになることである。

という内容を綴りました。

人は心の中に安心感があって初めて、不安な外の世界に一歩足を踏み入れようと思えるものです。

周りの期待に応えようと、部活も学業も今まで一生懸命頑張ってきたけれど、

ある日を境に心がポキっと折れて動けなくなり不登校になる子どもたちがいます。

もしかしたらその子たちは、心の中に不安を抱え、

それを打ち消すために頑張ってきたけれど、もうこれ以上頑張れず燃え尽きてしまったのかもしれません。

そんな時、周りの大人がその子のためにしてあげられる事とはなんでしょうか?

学校に行かないと大変なことになると脅して不安にさせる事でしょうか?

嫌がる子どもの手を引っ張って無理やりにでも学校に連れていくことでしょうか?

もしご自身が同じ立場なら、何を必要としますか?何をしてほしいですか?

気持ち一杯になって動けなくなった子どもたちにまず必要なのは休養です。

安心感をもてる場所で休ませてあげてください。

自立とは、十分な依存を通じて果されるもの。

動けなくなった子どもたちに必要なのは、自立を促すことではなく、一先ず依存させてあげることです。

心の中に安心感があるからこそ、人は今いる世界から一歩踏み出してみようと思えるのです。

今動けなくなっている子たちだって、ずっとこのままでいいなどとは決して思っておりません。

ゆっくり休ませてもらう依存体験を通じて、自立心が芽生え立ち上がっていった事例を、

私はこの仕事を通じていくつも見てまいりました。

だから今は、どうぞ子どもたちを休ませてあげてください。

「今まで一人で頑張ってきたね」と、どうぞ労ってあげてください。

続きます。

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自立とは何か ~自立と依存~

昨日のブログでは、何でも自分で出来るようになることは、自立ではなく孤立である、と綴りました。

実際に何でも自分で出来る人などおりません。

そして、そんな人間を目指すことは現実的ではありません。

私も今年で38歳になりますが、出来ないことはいっぱいあります。

何でも自分で出来るようになることが自立ではなく孤立ならば、自立とはなんでしょうか?

臨床心理学者の河合隼雄先生は、著書の中で以下のように述べています。

“自立ということを依存の反対である、と単純に考え、

依存をなくしていくことによって自立を達成しようとするのは、間違ったやり方である。

自立は十分な依存の裏打ちがあってこそ、そこから生まれ出てくるものである。”

自立というのは依存と切っても切れない関係性にあり、適切な時期に、受け容れられ甘えられることによって、

心の中に自分が自分であることの安心感が芽生え、その結果、外の世界に興味関心が向いていく。

自立とはそういう順序をたどって果されるものなのです。

受け容れられ甘えられた経験は、自分自身の存在に対する安心感を育むとともに、

自分を取り囲む世界は、自分を受け容れてくれる信じるに値する世界である、という感じ方を子どもの心の中に育みます。

その自分を取り囲む世界に対する信頼感があるからこそ、外の世界に自分を開いて、他者と協力して生きていけるようになるのです。

臨床哲学者の鷲田清一先生は著書の中でこう書いてます。

“自立しているというのは決してインデペンデント(独立的)なのではない。

インターインデペンデント(相互依存的)な仕組みをどう運用できるか、

その作法を身につけることが本当の意味での自立なんじゃないかな。”

自立とは何でも独力で出来るようになることではありません。

自立とは、十分な依存によって育まれた自分自身に対する安心感、世界に対する信頼感を足掛かりに、

他者と相互依存的な人間関係を築き、手をつないで生きていけるようになることを言うのです。

そのために、周りの大人がしてあげられることとは何でしょうか?

親の価値観から離れ、自分自身の世界観を築いていく自立のプロセスを歩む子どもたちに、

私たち大人がしてあげられることとは何でしょうか?

続きます。

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参考図書 こころの処方箋 河合隼雄 著

大人のいない国 鷲田清一 内田樹 著

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