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学校と納豆の等価性 ~人生いろいろ、子どももいろいろ~

昨日のブログでは、「納豆嫌い!」は別に叱責の対象にはならないのに、

なぜ「学校嫌い!」は叱責の対象になるのか?と綴りました。

それは、今の日本に“学ぶためには学校に行かねばならない“という強固な価値観があるからです。

私は子どもたちは学ぶ必要があるとは思いますが、それが必ずしも学校ではなくてもいいのではないか、と考えています。

今日はその理由を書いてみたいと思います。

人間の情報処理の仕方には、いくつか種類があることが知られています。

一、空間視覚型情報処理

二、聴覚言語型情報処理

三、視覚言語型情報処理

このような情報処理型があるのだそうです。

視覚空間型情報処理が優位な人は、身体や手先を動かすのが得意で実際に行動して学ぶことが得意です。

反面、集中力が続かず、じっとしていることが苦手と言われています。

聴覚言語型情報処理が優位な人は、会話を通して情報を処理することが得意で、コミュニケーション能力が高く、相手に共感を示すのが得意です。

半面、空間認識や論理的思考が苦手と言われています。

視覚言語型情報処理が優位な人は、文字言語を通じて情報処理を行い、論理的に物事を考えるのが得意です。

その一方で、オリジナリティには乏しく、会話が苦手という一面があります。

聴覚言語型や視覚言語型は、講義中心の現行の学校というものに比較的馴染みやすいですが、

視覚空間型といわれる情報処理をする子どもは、じっとしているのが苦手なわけですから、講義中心の学校教育に適応困難を起こすことが容易に想像できます。

また、脳の特性で感受性の豊かな子どもは、HSC(highly sensitive child)と呼ばれていて、

その感受性の豊かさゆえに、大きな音や、強い光、におい、化学物質、場の雰囲気の変化などに敏感に反応し、苦しさを覚えてしまうといわれています。

この特性を持った子にとっては、学校にいるだけで精神的に消耗してしまい、学習どころではないでしょう。

空間視覚型情報処理の子どもにしろ、HSCの子どもにしろ、今の学校というシステムに上手に馴染むことが難しい子どもたちがいます。

日本では、教育がそのような子どもたちの学びに上手く適応できていないのが実情なのです。

続きます。

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